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東宝エリザベート2015の感想(2)

      2015/08/30

東宝エリザベート 2015

というわけで東宝版エリザベート2015、エリザベート役への感想です。
前の続き記事、エリザベート役以外への感想の記事はこちらから。

クレバーで強いエリザベート

東宝エリザベート 2015
蘭乃はなさんのエリザベートの印象です。
宝塚で演じられた時には、言わば初演の花總まりさんがある意味作った「エリザベート像」というテンプレートに沿って演じられていたのかもしれません。今回の舞台では、蘭乃はなさんが自分で作り上げていくエリザベートがそこにありました。

彼女のエリザベートは、どこか強気です。

自由に生きていきたいという強い意思があり、少女時代には「それは叶う願い」という(子どもに特有の)自信もあります。だから、フランツに「皇帝には義務がある、皇后も等しく義務を負う」と諌められても「大丈夫、私が自由に生きたいと願っているから」と自信からポジティブに応えます。皇后ゾフィーに義務の教育をされようとしていても、彼女は真っ向から「私にはそれをしない権利がある」と受け止めます。彼女は数多の出来事に心を折られ、やがておとなになるにつれ自信はなくなりますが、その強さは失いません。
一方で、彼女のエリザベートはトートを拒絶しません。
トートを拒否をしますが、トートがそこに在ることに疑問はありません。
どこかで彼女のエリザベートは、全てを察してもいます。

そんなエリザベートの歌い方はとても力強いものでした。
中音から低音域の辺りで一部声がひっくり返る感じがあるのが気になりましたが、蘭乃はなさんは強く歌うことをとにかく強く意識している感じがありました。
そのせいか、少女時代には力強過ぎて、そして晩年にもやはり少し強すぎて、「少女時代から死に至るまでの女性の人生」を表現する上では、ちょっと年齢幅が(宝塚で演じた時よりも)小さく感じました。これはひとつ面白くない部分だった。

天真爛漫に生き続けられなかったエリザベート

東宝エリザベート 2015
花總まりさんのエリザベートの印象です。
彼女は宝塚歌劇団時代の時から作り上げている自分の中の「エリザベート」を深く深く解釈して掘り下げて行っているように感じました。彼女のエリザベートは、少女時代、とても天真爛漫です。父のように自由に生きられる、人生に退屈をする暇などないはずだと考えています。
ですからフランツに諌められても、それを実感として受け止めません。そんなはずはない、自由に生きられるはずだと信じています。皇太后ゾフィーに早朝たたき起こされても、彼女は笑顔で受け答えをしようとします。「そんなはずはない、まさか他人が自分の自由を奪おうなんてしようとするはずがない」とどこか信じているのです。ですから、夫であるフランツに再度「母親の言うことを聞きなさい」と諌められた時に、衝撃を受けます。その時、彼女は初めて「自分が自由に生きられないかもしれない」可能性を知るのです。だけども、やはりどこかで「自由に生きられるかもしれない」と思ってもいます。
彼女にとってトートという存在は敗北です。
「もしかしたら自由に生きられるかも。」トートを受け入れるとすれば、その期待が断絶した時です。ですから、彼女は拒絶します。希望を持ちたいのです。「もしかしたら自由に生きられるかも」という気持ちを捨てたくないのです。

ですが、現実は過酷です。
彼女が自由にできることはなにもなく、子どもは失い、夫は自分を裏切ります。
彼女は必死に希望を保とうとしますが、とうとう自分を孤独に追いやり、息子も失います。
そして、敗北を察するのです。「パパのようにはなれなかった、もうなれない」と。

天真爛漫な少女から、ただ死が訪れるまで孤高で在り続ける晩年まで、花總まりさんは素晴らしい年齢の幅を演じられていました。舞台の上で時間が進んでいくことが感じられました。
この舞台、周りの登場人物は白髪が増えたりなどしてどんどんと「見た目で年老いていく」ことがある一方、エリザベートは年齢的な見た目はほとんど変わりません。ですから、エリザベートがどれだけ歳を重ねたかは、演じる人の手に委ねられます。花總まりさんは、本当に舞台の時間を進めていた。

歌も素晴らしかったのですが、彼女が「強い感情の表れ」を表現するのに、涙を多用していたのは、実は少し気になりました。悲しみ、苦しみ、喜び、種類を問わずに「それがとても強い感情」であるなら、涙を流していた。そんな印象です。
すごいけど、涙に頼らない彼女を観られたらもっと素敵だったな。

でも、彼女のエリザベートはやっぱり孤高のエリザベートです。

エリザベート

「死」というものが形をもし取らなければ、エリザベートというのは非常に気難しい女性です。古い習わしに従うことができず、一方でハプスブルク家という家柄だからこそ可能である「自分の求めるものを求め続ける」生活を送るという享受は受けています。平たく言うなら、物に対して不足はなかったけども、心については常に何か渇望し続けた、そんな女性の人生です。

自由に生きられると思ったら、姑という古い習わしが自分を縛りつけた。
夫は味方してくれなかった。
子どもを手元に置いてみたのはいいけど、死なせてしまった。
自分の好きなハンガリーには助力を惜しまなかった。でも、義侠心ではない。
夫が女遊びをして裏切られた。
その後はお金も時間も湯水のごとく使いながら、ヨーロッパを放浪した。逃げ続けた。
息子に助けを求められても自分の立場を考えて見捨てた、そしたら息子は自殺した。
もう自分では人生をどうすることもできないと考え、ただ放浪した。
刺されて死んだ。

箇条書きにすればこういうことです。
歯車を大量に使った巨大なギミックの、ほんの小さな歯車が狂い、けれども、その歯車は全体を大きく狂わせることになった。彼女の人生の狂い方はそんな感じがします。刺されて死んだことは、実はちょっと彼女にとって救いだったかもしれません。

この人生を全て知っているのはエリザベートです。
そのエリザベートが何を考え、何を選んで何を棄てたのか。その心の揺らぎを、お二人、どちらのエリザベートも深く解釈し、演じられていたと思います。賞賛。

まだまだ公演期間は続きますが、既にチケットは満員御礼のようです。
東宝エリザベート 2015
補助席販売のお知らせが来ていましたが、それも全部売れたのかな?ちょっとわかりませんが、今後DVDなりが発売されたら購入しようと思っています。

というわけで、感想でした。

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